●道徳教育すべきは子どもよりも「大人」

●道徳教育すべきは子どもよりも「大人」

 責任者遺棄致死など、「大人の不作為」が乳幼児を殺しているように、どんなにバカメディアやバカ朝日新聞、バカTBS、バカ鷲田、バカ田原、バカ橋下、バカ維新、バカ共産党が、道徳を全否定しようとも、日本人の大半に宗教倫理がない以上は、日本で道徳教育すべきは「子どもよりも大人」である。

  

 ましてや2021年度には20万件を超えるなど、年々激増している児童虐待は明白に、子どもの道徳の問題では全くなく、完全に大人の道徳の欠落が原因なのである。

 朝日新聞やテレビ朝日、池上彰は、児童虐待の原因が、大人の道徳の不在によるものであるという明白な事実から逃げ回っている。

 

 

(2022年9月10日 朝日新聞)

 彼ら無能な自称知識人どもは口をそろえて「道徳は内心の問題」と言うが、哲学の代表格であるヘーゲルと、社会学の代表格のデュルケムは二人とも「道徳は社会性である」と言っている。

 つまり、いかに日本のバカ連中、左翼連中が「道徳は個々人の内心の問題」と言い張っても、無人島では道徳は意味がないのであって、つまり道徳とは憲法でいう「公共の福祉」に近い概念であって、「内心の問題ではない」のである。

 たとえば「三島由紀夫が『葉隠(はがくれ)』という道徳に専心する」というような内心の問題なら無人島でもOKだが、無人島のように1人しかいない社会においては「それが道徳的かどうか」はわからないし、そもそも無人島での道徳自体、意味がないのである。

 そして日本においては、大学で学ぶような法学における道徳の低い定義付けそのものが完全に間違っているのである。

 率直に言えば、日本人にとって道徳は矮小化(わいしょうか)され、完全に見えないようになってしまっているのである。

  

(2022年9月17日 朝日新聞)

 そして9月17日には、学校で道徳を教えるべき小学校の元担任が、悩みをかかえ、全く道徳ではなく個人的な感情によって、給食のカレーに漂白剤を入れて、立花孝志さんと同じ「威力業務妨害」で逮捕されたと報じられたが、それこそ、かつての「毒入りカレー事件」と全く同じ大惨事の一歩手前まで行ってしまっているという事件が、一連の乳幼児の保護責任者遺棄のすぐ後に起きてしまったのである。

 しかし「先生」、「小学校教諭」と言えども、まだ24歳の女性。

 哲学・道徳に精通した48歳の私から見れば、子どもである。

 そして私が24歳の時は、哲学も道徳も全くなかった時期でもあったが、ロスジェネ世代で就職できず、ネット環境もまだない時代で、家で読書をする時間があったため、それらに精通しているというだけの話である。

 無論、日本では女性よりも男性教諭による生徒へのわいせつ行為が後を絶たず、社会問題化しているが、これら若い学校の先生に普遍的な道徳を教えるのではなく、国民民主党の伊藤孝恵などが感情的なツイートをした上で、法を締め上げて、男性が罪を償(つぐな)っても、一生教職には戻れないようにしてしまっている。

 無論、そうした未熟な社会の構成員を「性犯罪者」として排除しつつも、若者に一切道徳を教えないものだから、男性教諭だけではなく、今度は女性教諭による男子生徒との性行為も、くしくも今月に報道されている。

 

 (2022年9月8日 朝日新聞)

 「生徒と性行為で女性教諭懲戒免」(2022年9月8日 朝日新聞)

 この記事では、男子高校生と性行為をして懲戒免職にされた女性教諭に加えて、小学校の男性教諭による児童へのセクハラと、都庁の主計局主事による痴漢行為が報道されており、6年くらい前から同じようなことを書いているが、ここまで来れば、「公務員が性犯罪を起こしている」というよりも、「性犯罪者が公務員をやっている」と言っても過言ではない。

 このようにして日本人の道徳を破壊し排除しつつ、それによって起きた心ない事件を喜々として飯の種(たね)にしているのが朝日新聞や日本のテレビ民放であり、加害者と被害者の人生を破壊しつつも、自分たちは「マイノリティや弱者の立場に立つ」として、偽善的に振る舞い、大衆を味方に付けて、敵対する道徳を攻撃する。

 イエスや哲学者ヘーゲルの言うように、やっていることは完全な「自己正当化」であり、自分たちのことだけを考えて、日本人同士を対立させたり、社会秩序を破壊することだけであって、理論的に言って完全に「イスラム国と同じ」なのである。

●「道徳=理性」では全くない。

 曽野綾子さんの言うように、まず人間にはキリスト教の「アガペー」という「理性的な愛」が必要なのであり、つまり「性愛」に近い意味の「エロス」と区別された普遍的な愛であって、アガペーとは、女性が交際相手を選ぶような、生理的で情欲的で排他的な愛(エロス)でもない。

 それは日本の手厚い社会福祉の元となり、明治政府が進めた「憐(あわ)れみ救う」を意味する「恤救(じゅっきゅう)」規則と同様の意味合いである。

 このように「理性」とは道徳に必要な要素に違いないが、「道徳=理性」というわけでは全くない点に留意しなければならない。

 いくら理性的であっても、日本の政界には「維新のドン」浅田均や竹中平蔵、麻生太郎といった血も涙もない新自由主義の亡者であふれ返っているし、算数の成績が良い子どもであったり、車の運転ができる人は「だいたい理性的である」と言うこともできるのである。 

 そして残念ながら、メディアや政治家のように日本には全く道徳的ではない「悪魔的で理性的な人」が大勢(たいせい)であり、大半である。

 むしろ自然や動物が、理性的ではなくとも、「純粋」であるのに対して、理性とは神が人間だけに与えた「悪魔の副産物」であることを肝に銘じておかなければならない。

 自然や動物の世界にはない戦争や拷問、いじめなどの残酷さがその最たる例である。

 

 だが逆に、社会学の代表格であるデュルケムは「道徳教育論」において、いわば理性による道徳の説得の必要性を強調しており、私もこれには同感である。  

 つまり人の心に対しては、刑務所で押し付けられるような「標語」は無意味であり、犯罪者の大半である成人男性に対しては、「1+1=2」を教えるように、理性的に物事の理(ことわり)を教えていくのがベストである。

「善と義務という抽象的な言葉を…繰り返したり…するのにとどまるだけでは、道徳のおうむ返しにすぎない。

 …児童を道徳的に形成する方法は、…きわめて一般的な道徳的格言の数々を児童に向かって繰り返すことでは決してない。」

(デュルケイム著 麻生誠/山村健訳「道徳教育論」)

 哲学書を読んだことのない北野武さんは、著書の『新しい道徳』で、「道徳は理性ではない」というようなことを、のっけから書いたが、それは全く真理ではなく、「絶対的な価値などなくて、どんな意見があってもいい」という「相対主義」で混乱していた古代ギリシャで、「普遍的な道徳」を説いたことによって初めて哲学者足り得たソクラテスがいることを彼は知らない。

 たとえば、「人間関係は双方の合意によって成り立つ」とするルソーの「社会契約論」も「1+1=2」のような普遍的な道徳である。

 そもそもが先に述べたアガペーも、性欲のエロスとは異なる人間的で理性的な道徳なのだから、人の好き嫌いやえこひいき、悪感情などが一切入らず、普遍的で理性的であることは言うまでもない。

 それは美輪明宏も次のように言っている。

 

「悩んでる時にはね、メンタルになるのが一番恐いの。人生の岐路ってあるじゃない。行き詰った時、落ち込んだ時、二者択一で迷う時、(中略)そういった時に一番必要なのは理性だけなのよ。だから感情は全部体の中から追い出しちゃうの。それで自分がマシーンになっちゃうのよ。ロボットみたいに。クールで冷たくて何の感情もないの。」(美輪明宏 TBSラジオ「遠藤遼一 レディオトランシー」)

 

 だが、道徳にとっての理性とは、あくまでエロスのような動物的な愛と区別するための必要最低限のものであって、会社で仕事をソツなくこなしたり、車の運転ができたりする児童虐待常習者の親や、竹中平蔵にも当然十全な理性はあるのである。

 また私自身、これまで学会でも、本でも、「理性の必要性」だけを言ってきたきらいがあるが、理性はあくまで道徳にとってはあってもなくてもいい偶然性であって、逆に必然的に道徳に必要なものは、身内や目下の人も含む「人の心を大切にすること」である。

 

 逆にこれがあれば、口が悪かったり、キツい物言いであったり、矢沢永吉や長渕剛、氷室京介のようにカッコつけても、悪ぶっても、全く問題ない。

 ―というか、むしろ模範の父親であり、上司であり、先生であり、カッコいい。

 逆に「人の心を大切にすること」が全くなければ、どんなに敬語で礼儀正しくても、物腰が柔らかくても、正真正銘「人間のクズ」である。

 それは海外のサッカーシーンで掲げられている「Respect(尊重)」という概念に近い。  

 そして「人の心を大切にすること」が、ベッキーや美元(みをん)、塩村文夏(あやか)など、魅力的な女性が男性を選ぶ時の、生理的な要素や排他的な要素のない「アガペー」に近い普遍的な概念であることは言うまでもない。

 逆に言えば、著名人に対してだけ態度を豹変させてしまう立花孝志さんのようなタイプはダメだ。

 無論、彼には他に良い面がたくさんあるから、それはそれで尊重されるべきであるが、宗教倫理が皆無で、ミーハー(誰かのファン)が多い日本人には、人を選んで態度を変えるこの手のタイプが非常に多い。  

 「簡単なことよ。優しくしてあげればいいのよ」といつも美輪明宏さんがシンプルに言われていることでもあるが、すべての日本人に、曽野綾子さんの言うアガペーに等しい「人の心を大切にすること」の普遍的な道徳があれば、児童虐待や保護責任者遺棄も絶対に起こらないのである。

●「道徳は『1+1=2』ではない」という北野武さんの意見も半分正しい。

 

「数学にツッコむのは難しい。

 『1+1=2』

 …なにしろ、反論する余地がない。

 …そういう意味で、道徳は数学の対極にある。

 なにしろ、ツッコミどころが満載だ。

 小学校や中学校で使っている道徳の教材をパラパラとめくっただけで、あっちにもこっちにもツッコミを入れたくなる。」 

 (北野 武 著「新しい道徳」幻冬舎 )

 まず武さんに言いたいのは、完全に当たり前の話であるが、小学校や中学校で教えている道徳は「道徳ではない」。

 それらは完全な「主観」であり、それを言っているやつ本人にしか通用しない「1億分のヒューマニズム」に過ぎない。

 たとえば、2006~2007年に教育再生会議でもてはやされたヤンキー先生のTVドラマには、担任の先生の髪の毛を燃やすというエピソードがあるが、完全に当たり前だが、ヤンキー先生本人にしか当てはまらない。

 無論、哲学者の道徳であっても、カントの道徳律である「定言命法」はツッコミどころ満載で、同じドイツのヘーゲルがあっさり論破したのは周知の事実である。

 そういう意味では、哲学・社会学・社会思想の人文学や三大宗教、神道、老子などの道徳に精通する私にとって、武さんの本は拙(つたな)いが、彼が2015年に道徳の本を出してくれたおかげで、無名の私も幻冬舎のグループから制限付きで道徳の本を出すことができた。 

 本題からそれたが、道徳とは理性的な側面もある反面、武さんの言うように、理性だけではないという側面もある。

 逆にマザー・テレサみたいな、女性的で献身的な「愛」の方が道徳の主体と考える方が一般的だろう。

 そして、もっと言うなら、ヘーゲルが言うように道徳とは、完全に矛盾したものである。

 なぜなら、道徳を突き詰めて行けば、最も道徳的な存在は、誰にも迷惑をかけない「死体」である。

 もしくは「社会に貢献しなければ道徳的ではない」というなら、最も道徳的な存在は工場で稼働している機械である。

 武さんの言うように道徳とは「1+1=2」のような理性的なものだけではなく、「人の心を大切にする」というような心情的なものであることは言うまでもない。

 また、哲学的あるいは道教的に言って、道徳の「徳」とは、すべての人間が神の一部である以上(スピノザ哲学においても)、神の片鱗(へんりん)である。 

 それは美徳に限らない神の現れである。

 しかし、私がそうした宗教的な道徳や、ルソーの「憐れみ」、明治政府の「恤救(じゅっきゅう)」の元になるような、人間の魂の奥底にある心情的な道徳をあえて後回しにして、「理性の道徳を先に教えよ」というにはわけがある。

 人それぞれの心に芽生えたり、去来する「申し訳ない」や「かわいそうに」、「ありがたい」といった道徳的な思いは、個人差がありすぎて、人それぞれの心に去来する時期が違う。

 また、博識ではないが、生来、悪意や悪感情を持たない純粋な人がいることもよく知っているし、そういった人たちに対しては、道徳教育は全く不要であることも知っている。

 だが、後述するように、政界やマスコミ、財界、公務員の多くには、彼らがより社会的な存在であるがゆえに、なおさら一般の人たちよりも、私の道徳教育が必要なのである。

 そのためには、彼らの心に、道徳的な念が芽生えるより先に、最初のステップとして、最大公約数としての、万民に共通する「1+1=2」のような理性的な道徳を理論的に説得する方が早いのである。

 たとえば、私の心の中に申し訳ない気持ちであるとか、子どもや動物が物を食べるしぐさに憐憫(れんびん)の情を抱くようになったのは最近の話である。

 マスコミや公務員といった日本の社会的な存在の公人が、私みたいに哲学書を読み漁(あさ)ったり、悟りを開くようになる40代後半まで待つというわけにはいかない。

 まして、哲学書は難解すぎるため(小林よしのりが愛読したハイデガーは中身がなく9割がた無駄…)、天性の哲学的な素養と膨大な時間がないと不可能だ。

 当時、武さんには何度か手紙を出したが、 武さんが自らの事務所の問題でもめている時に、TBSの「情報7days」で、「アインシュタインとイチローを足したようなやつが『弟子にしてほしい』だって。こっちが弟子にしてほしいくらいだよ」と武節(たけしぶし)で言われてしまい不調に終わった。

 だが、武さんは代理人の弁護士から私に電話を一本入れさせて、私が武さんと同じ明大出身であるということを知っているし、彼のおかげで私は道徳の本を出せたし、彼のおかげで「道徳=理性」というわけでもないということを改めて気づかせてくれた。

●子どもには道徳は教えられない。

 これは「子どもに道徳教育をする必要がない」という意味では全くなくて、児童虐待を受けたり、放置や遺棄される子どもたちはむしろ朝日新聞やTBS、田原、鷲田といった道徳を排斥してきた一連の人権主義左翼のマスコミの犠牲者なのであって、まずマスコミや公務員などの「社会的な存在」に対して、ある意味、罰とは言わないまでも、最も必要不可欠な教養として、採用試験に組み込むなどして、社会性としての道徳を教えなければならないということと、次に、子どもには前述したような理性もなく、かつ社会経験や年を取ってから去来する「申し訳なさ」や「感謝の念」といった個人差のある道徳的な思いもまだ芽生えないためである。

 それは日本で唯一名の通った哲学者である西田幾多郎が著した『善の研究』における「至誠」の道徳が有名であるが、道徳には長い年月と苦労と経験が必要なのである。

「多年苦心の結果、技芸内に熟して意到(いた)り筆自ら随(したが)う所に至って始めてこれを見ることができるのである。道徳上における人格の発現もこれと異ならぬのである。」(西田幾多郎 著「善の研究」)

 それよりもまず「思いあがった個は、社会によって襲撃されて必ず没落するのだ」(日本哲学会会長・東大教授 高山守「ヘーゲルを読む」放送大学)といった社会の掟(おきて)みたいな、悪いことをしないための哲学的な真理だけをガツンと教え込む方がいい。

 もっと別の言い方で言えば、日本の学校教育は「性善説」で完全に失敗してきているので、ネットの悪影響による「旭川凍死事件」など、血気盛んな少年たちに対しては「性悪説」的な真理によって「しつけ」るべきである。 

「意識において自らの個性は、それ自体正しく善きものである普遍的なもののもとにしつけられるべきである。

…つまりそれは、意識が実際もはや個々のものに囚われたままではないということを証示することなのである。

…つまりこのことは、個人の意識そのものに関しても、また、世の流れに関しても、当てはまるべきなのである。」

 (ヘーゲル 著「精神現象学」 / 放送大学 高山守 第11回「精神現象学」を読む III)

 逆に女子に対しては、美輪明宏さんの言うように理論ではなく人としての最低限のコミュニケーション能力を培(つちか)うために、地元の郷土の文化であったり、着物など、日本固有の文化を教育する方が望ましい。

 それは気分存在としての女子を、社会的な存在に育てるためだが、たとえば東日本の都市部など、日本文化の特色が薄い地域に限って出生率が極端に低いという統計から見ても、それは美輪さんの言うように効果的である。

 

 ヘーゲルの言う自然そのもの、命そのもの、神そのものといった「絶対無」を傷つけることによって誕生し、その「絶対無」の切り口から泉のごとく湧き出る生命エネルギーが体内と気に充満して、際限なくギャーギャー叫ぶ子どもたちから、特殊詐欺やいじめをしたり、大騒音を立てて改造バイクを乗り回す10代、20代に対しては、まず哲学的な道徳よりも、しつけと理性をひたすら「訓育」することに尽きる。 

 矛盾しているように思えるかもしれないが、読み書きができず、あるいは長文を理解できない子どもや若者に対しては、そもそも道徳自体に全く関心がなく、「哲学的な道徳を教える」という前提がないためである。

 そして、しつけには今、日本人の大部を占めて元気であり、児童虐待を全くしてこなかった道徳的な70代の多すぎるほど多すぎる人たちが受けた「道徳的な体罰」が当然含まれる。

 子ども、若者は、当然、その時代時代の社会通念上の善悪の境がわからないため、「どこまで悪いことをやっていいのか」、その「程度」がわからないがゆえに、時に悪いことをするのである。

 そしてこのような違法を越えて、むしろ犯罪に近い「悪」を二度としないために、つまり、道徳も体罰も禁止されて、全くしつけられずに取り返しのつかない事件を起こして、道徳を意図的に排除した反日マスコミに報道され、飯のタネにされて、家庭も少年の人生も台無しにするという、「マスコミの思うつぼ」にならないように、高校時代にツッパっていた頃の島田紳助さんに対するおじさんの体罰のような、道徳的で適切な体罰、しつけが必要になってくるのである。

 

 私も中学生のころは、当時通っていた「北大学力増進会」という、札幌にはどこにでもある有名な塾で、非常に悪いことをし続けていて、一見して普通の大学生の塾講師から、友達と一緒に体罰を受けたが、逆に私が成人して、上尾市で「明光義塾」の塾講師だったころは、女子中学生のグループから突然無視されるようになって、所長や同僚に恵まれていたにも関わらず、辞めることになったが、「道徳のない女性」が強くなり始めた時代の変わり目でもある。

 私が中学生のころに塾で体罰を受けた1986年は、それくらい、一介(いっかい)の大学生、北大生が、社会全体、コミュニティ全体に一体感や、家族のような帰属意識を持っていて、全く関係ない塾の生徒たちに対してさえも、島田紳助さんのおじさんのように道徳的に熱い気持ちを持っていたのである。

 一方で子ども、若者の大半には道徳的な念が一切なく、人として未熟であるため、理性がほとんど通用しないので、「しつけ」としての一回だけの適切な体罰ですら、日本の道徳を破壊して児童虐待を引き起こしつつ、倒錯した、ヨーロッパ中から嫌われている完全に倒錯した、キリスト教に対して攻撃的で罰当たりで無思想なスウェーデン左翼による「体罰禁止の法」の内政干渉を国民に押し付けて世論誘導したフジテレビの反町らマスコミと、選挙を間近に控えてポピュリズムに走った自民党の山下法相(当時)によって「違法」となってしまった。

 島田紳助「子どもは殴らなあかん」

 そして、子どもや若者に対するしつけや理性教育を三大宗教に委ねることのできる他国は日本よりも圧倒的にラクである。

 それゆえにいじめ自殺や児童虐待、公務員による性犯罪など、日本の社会は他国には見られないような非人間的な社会問題だらけである。

 そしてそれゆえに、日本人は今世界で一番軽蔑されるべき民族であると確信するし、政界、財界、マスコミのほとんどの人が天国に行けないし、哲学や宗教に精通する者として、ありとあらゆる神々に対して「絶対に行かせてはならない」とも力強く説得する。

 2009年に慶応大学で行われた日本哲学会総会の後の哲学系四学会において、中学教育の道徳教育の必要性について文科官僚が、学会員に意見を求めたところ、私だけが発言して、理性教育の必要性を挙げたが、それは道徳の念を抱かせるような心の道徳、情操教育を全否定しているのでは全くなくて、デュルケムが「道徳教育論」で言うように、物理的に子どもには「理性しか教えられない」ためである。

 しかしそのような普遍的な道徳を排除して、今日(こんにち)の社会衰退にある日本社会について、私はヘドが出る社会、滅びるべきどうしようもない国と、既成政党や大手メディアに対して、口が酸っぱくなるほど言い続けてきた。

●日本消滅、エリザベス女王逝去と皇室へのアプローチについて

 

 (2022年9月2日 朝日新聞)

 

 そして上半期の出生数も40万人を切った。

 日本には高齢者が3627万人もいることを考えれば完全に絶望的な数字である。

 イーロン・マスクの「日本消滅発言」を引用せずとも、道徳倫理を全否定して、子どもを産ませずに殺し続ける日本が消滅するのは自明の理だ。

 高度成長を支えた日本の高齢者は、徹底的に高福祉で手厚くされるべきだが、それは現役世代が多ければこそで、日本は高齢者の重みでつぶれてしまう。

 私はもう完全にブログを書くことをあきらめて、日本を完全に見捨てていたが、私みたいな者にもブログ読者がいて下さるので、もう一度記事を書くことにした。 

  

 他国のような宗教倫理が一切なく、人権主義だけを叫ぶ大手メディアに追従して、盲目的にその影響下にある日本人は、人間それ自体ですらなく、まさにニーチェの言う「薄気味悪い何か」だ。

 

 思うに今のそういう日本人は人間ですらない。

 政界、マスコミ、財界にはびこるのは、名前がなくて、日本語すら通じない動物、得体の知れない体毛のない動物たち、ケダモノである。 

 エリザベス女王逝去に伴い、天皇皇后両陛下が国葬参列のためイギリスに訪問されるが、三笠宮家の断絶によって皇統がか細くなりつつある今、天皇陛下と秋篠宮さま、悠仁さまのお三方に何かあったら、日本は大変なことになる。

 私は特殊な事情を抱える立場にあり、日本国民の心と命を大切にし、道徳倫理を重視されてきた皇室の意向を鑑(かんが)み、いたずらに日本社会を衰退させ、暴走する売国の既成政党と反日のマスコミの悪逆に天誅を下すべく、いずれすべてを明らかにしなければならなくなる。

 しかし、それはおおよそ私の一存であってはならないので話はややこしくなる。

 

 ただ一つ言えることは、[中略] は弱さと邪悪さがベースにある私とは、精神の質そのものや魂の質そのものが完全に違う。

 私が知る限り、皇室と血縁的に最も近く、かつ、最も道徳的で純粋な人たちこそ、皇族に新たに迎え入れられる時である。

 それは純粋で道徳的というだけでなく、普通の一般人には一切見られないような誇り高さというかプライドの高さが私に記憶されるのである。

 日本人が完全に人間でなくなる前に何か手を打たなければならない―。

 無論、社会学者、宮台真司の言うように今の日本は「田吾作の言うことを田吾作は聞かない」であり、私の20年以上に渡るもろもろの道徳提言は水泡に帰してきたが、幻冬舎から道徳の本を出した北野武や、芸能の分野で多方面に活躍する美輪明宏のように、道徳的なことを言うなら何かエンターテイメントで成功しなければならないことも重々承知している。

 だが私の本業は、社会性のないポップミュージックしか聴かない今の日本ではおおよそ受け入れられないジャンルである(好きな人もツイッター上には結構いるようであるが)。

 また小林よしのりが言うように、今の日本は「相対主義」の世の中にあり、つまり、どんな意見があっても良くて、逆に言えば、何が重視されるべきということもないため、私のように普遍的な道徳を説いたことで、「哲学者」足り得たソクラテスが出てくる以前の古代ギリシャのような「相対主義による混沌状態」にあるのである。

 96歳で死去されたエリザベス女王で思い出したが、子どもへの愛と育児に心を尽くされた三笠宮妃百合子さまも御年99であり、少なくとも私にとっては「日本のエリザベス女王」と言っても過言ではない。

 少なくとも10代のころに「精説 倫理社会」を いわば [中略] され、その本をきっかけに哲学者、道徳家足りえた私としては日本の最後の生命線と信じている。

 だが、私には日本には、日本人を衰退させ尽くす既成政党に大手マスコミと「障害しかない」有り様である。

 

(「週刊新潮」 令和4年7月21日号)

 ただ、「週刊新潮」だけは、日本の道徳を破壊する人権主義者の砦である日本版SDGsと戦ってくれているので、唯一の頼みの綱となるかもしれないー。

 無論、皇室とは距離があるだろうが、日本を破壊する新自由主義や人権主義と戦う、こうした健全な保守言論の影響力を評価しない手はない。

 

 もはや完全にゴキブリ以下でしかない大手マスコミや日本の国会議員を屠(ほふ)って、日本が前に出るための戦いをしなければならない。

 ウクライナでは、航空戦力で圧倒的に劣り、核兵器がないウクライナ・コサックが、大国ロシアに対して反転攻勢に出、南部だけでなく、ロシアと接する東部すら奪還しつつあるのに、先進国で経済大国の日本は、固有の領土である北方領土を取り返す議論すらできない。

 米軍との同盟があり、イージス艦などの兵器でロシアの優位に立つ日本が、北方領土を奪還する動きを見せることだけでもできたら、どれだけ多くの罪のないウクライナ人の命を救うことができただろう。

 無論、戦争は絶対にしてはならないが、今生まれてくる日本の子どもたちが、戦争以前に、成人になる前に、虐待されたり、遺棄されたり、いじめ自殺しているのは皮肉な話であり、これが反日国や朝日新聞などの極左による「サイレント・インベージョン(静かな侵略)」であることは言うまでもない。

 財務省や財界、マスコミの犬と化した岸田政権は何もしないまま、それでいて金融所得課税をせず、物価高と円安の窮地にあり、さらには小池によって、環境を破壊する太陽光パネルの義務化まで進められようとしている。

 

  (2022年9月2日 朝日新聞)

 

 三橋貴明氏によれば、太陽光そのものが「ショック・ドクトリン」であり、つまり「3.11」のような大災害を利用した悪い政策、「惨事便乗型資本主義」であって、非効率で元が取れなかったり、火災になっても消火できなかったり、廃棄にお金がかかり過ぎたり、イタイイタイ病と同じ有毒物質のカドミウムが含まれるなど、非常に多くの問題があるのに、三橋貴明氏のような反対意見を一切聞かず、有識者会議側だけの意見を載せる朝日新聞は完全に「太陽光パネル推進」のようである。

 道徳を排除する人権主義に加え、維新を応援することで新自由主義まで標榜し、さらには中立な意見を一切載せず、紙面で臆面もなく太陽光義務化まで絶賛する世論操作は、何も知らない高齢の購読者に対する甚だしい欺瞞(ぎまん)だが、報道の本来の役割を忘れた朝日新聞は、金融機関に対する巨額詐欺で社長が逮捕されたテクノシステムの「広告塔」として太陽光利権に群がった小泉純一郎や小池百合子と本質的に同じ拝金主義と見ていい。

●一番道徳が必要なのは財界人

 (2022年9月2日 朝日新聞)

 「内部留保500兆円」というこの報道を見ても、ピンと来ない高齢者が大半だが、本来、日本経済に流れるべきお金がこんなにあるということである。

 これが30~40年前なら、現在の内部留保のうちの何割か、何百兆円が、大企業から法人税として国から徴収され、財政投融資などで日本国民に還元されて、日本の中間層が維持されてきたが、竹中平蔵ら道徳のない財界人によって、法人税が極限まで下げられてしまい、その代わりに消費税が上がったため、これらのお金が日本経済に全く流れず、さらには、この内部留保以上に、外国人株主への配当として、日本のお金が大量に海外に流出してしまっているため、今の日本は完全にパイが取り尽くされた状態なのである。

 つまり今の日本はどう控え目に言っても出血多量の状態であり、事実、子どもの貧困があったり、経済的な理由による自殺が増えているが、こんな前提では、どんな政策を打っても景気が良くなるはずもなく、消費税廃止や法人税増税、場合によっては内部留保課税のような「輸血」が必要だが、竹中平蔵を始めとする道徳のない財界人が一切それを許さず、むしろ逆に日本人労働者を安く買い叩いている有り様である。

 そして、この朝日新聞の記事にも、「法人税を竹中平蔵以前の水準に戻すべき」という当たり前の見方が一切なく、道徳はおろか、真実を公平に伝えるという「ジャーナリズム精神」もクソもなく、スポンサーである大企業に媚びへつらって、「格差拡大の新自由主義」に完全に加担している状態なのである。

●朝日新聞と御用(ごよう)学者、鷲田氏の罪

 

(2022年9月16日 朝日新聞)

 わが日本哲学会にも、道徳を排斥してきた赦(ゆる)されない罪人がいる。

 朝日新聞の御用学者、鷲田清一である。

 左の画像は、朝日新聞購読者に送られる付録の「日めくりカレンダー」なるものである。

 食卓やリビングのテーブルに置いたり、子どもが学習机に置くようなカレンダーの作りで、月が替わるごとに左半分を、日が替わるごとに右半分をそれぞれめくっていくが、毎月4日には必ず「教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、」という、道徳を全否定する文言が表に出てくるようになっており、つまり1年を通して、意図的に日本人から、日本人に最も必要とされている道徳を遠ざけようとする悪意のある作りであり、朝日新聞と、鷲田清一の社会的な罪を示す「動かぬ証拠」である。

 「真犯人はお前だ!」

「純粋に道徳的な存在(神)は、自然や感覚とのたたかいを超えたところにある」

(ヘーゲル 著・長谷川 宏 訳『精神現象学』 作品社)

  

 だが、西部 邁(にしべ すすむ)、北野武、江原啓之、政治家でも、前埼玉県知事の上田清司と、当たり前だが「道徳の必要性」を言う著名人もいる。

 また、桜井誠には道徳がなかったため、中川翔子さんの遠縁にあたる新妻舞美さんの暴露によって失脚したが、私は桜井誠とは本質的に違う。無論、直近の選挙で大敗して、政界をあきらめざるを得ない状況に違いはないが。

 

●私が「道徳家」を名乗っていることについて

 矛盾していると思われるかもしれないが、道徳家である私は「自分が道徳的である」と思ったことは一度もない。

 私は哲学や宗教の普遍的な道徳に誰よりも精通しており、またそうしたインスピレーションを得やすいということであって、「道徳家であること」と「道徳的であること」はそもそも関係がない。

 いや、むしろ、自分が全く道徳的ではないため、もっと道徳的に生きなければならないという原罪意識のような、自分を責める意識があるからこそ、自分が道徳家であると思うことがある。

 道徳とはヘーゲルによれば、自由の制限という側面もあるため、つまり、非道徳的な自由を欲するほとんどの他者から嫌われなければ道徳的とは言えない。

 イエスは民衆によって殺されたのであって、そして私はまだイエスのように磔(はりつけ)にされるほど日本人の多くから嫌われるような知名度や影響力がないため、これからもずっと道徳家であり続けなければならないと思う(笑)。

 また、時に純粋で朴とつな人を見て、この人は道徳的だと思うことがよくある。

 つまり、道徳家とは、私自身が道徳的というのではなく、道徳のある他の人を見抜く目利きであるということである。

 たとえるなら、高田純次のような宝石に詳しい宝石鑑定士は、宝石そのものではないということだろうか。

 純粋で朴とつな人とは、私の言うような「道徳の必要性」を理解してくれる人であると同時に、神道やキリスト教でも言われるような純粋な人、裏表のない人である。

 だが日本で生きていても、一般大衆が関心のあるマスコミや政界、インフルエンサーにそういう人を見つけることはない。

 そして道徳を全く知らない若い人たちは、道徳のないそれらの人たちの影響しか受けないため、日本はますます道徳的ではなくなっていく。

 また、私が道徳家を名乗る理由は、日本だけで激増している児童虐待を止めるためでもある。

 最近では、男親の虐待だけではなく、女親の保護責任者遺棄まで目立つようになってきている。

 哲学や社会学で重視される普遍的な道徳とは、SDGsのような、「なになにをしろ」というような押し付けがましいものではなく、いじめや児童虐待など、あくまで違法よりも悪いというような、「相対的な悪」をしないという最も弱い道徳に過ぎない。また、カントの定言命法が真理ではないのはヘーゲルが証明している。

 私が道徳家と名乗る理由の一つには、「道徳」というワードを、あえて道徳が嫌いな日本人の目にさらすためでもある。

 そしてネット上ですら、無視されたり、けげんな顔をされたり、疎遠になったり、場合によっては抗議を受けることもしょっちゅうである。

 だが私は、一つの目的としては、日本だけで激増している児童虐待を止めるために命がけでやっているので、あなたがたみたいに、何も知らなくて、命をかけられない人たちから、自分勝手で感情的な反応をされても、怖気(おじけ)づくことは一切ない。

 そして私自身が「道徳的ではない」という認識も常に強く持っている。

 そもそもが死刑囚であっても、道徳的であるという刹那はあるし、聖者のような人であっても、悪人であるという刹那はあって、道徳とは、「A=A」というような絶対律ではない。

「A = Aという形をとる絶対の相のもとでは、『なにものか』などは存在せず、一切が一つになってしまう…。

…すべての牛が黒く見える夜なのだ、といいはなつのは、おのれの認識力の欠如を無邪気にさらけだしたものというしかない。

…実体が主体であるということは、そこに純粋で単純な否定の力が働き、…単一のものが分裂するということである。

…教養の仕事は、…固定された思想を流動化させること…、自己主張の頑固さを…放棄することが必要なのだ。」

(「精神現象学」まえがきより)

 まず道徳とは、意識が向かうベクトルであって、たとえば戦場で若干17歳の平敦盛を殺しても、仏門に入り一生を悔いて道徳的であろうとする熊谷直実と、日本の心ない女性タレントのように、生まれ持った見た目の美しさだけで大衆からちやほやされても、ペニオク詐欺やSNSでステマをしてファンをだましたり、場合によっては自分で靴下に穴を開けて返品したり、痴漢のえん罪をやっていたことをテレビで誇らしく語るなど、全く道徳的ではない美しい女性は山ほどいる。

 介護職すら公務員化しない新自由主義の政府から見放されて、介護疲れで認知症の身内を殺して服役している一般人が殺人者であるとして、対照的に見た目だけの女性タレントは、たとえ過去にペニオク詐欺を働いていたり、ステマを現在進行形でやっていても、当然犯罪者の対極に位置していて、商業的な価値があるとされて、マスコミや大衆からもちやほやされている。

 つまり道徳は法と一切関係ない。

 厳密には、法は人間の道徳によって作られたものであるが、法は所詮法であって、官僚が作った内閣立法であったり、国連左翼やマスコミを含めた時の権力者によっていかようにでも変えられるものであって、真理では全くなく、目に見えない真理と直結する道徳は、大衆を支配する道具として用いられたり、唯物主義の産物でしかない法とは全く異なる範ちゅうのものである。

 そもそもが遵法意識も、完全に道徳によるものである。

 ヘーゲルやアルトーに言わせれば、法は過去に書かれたもの、死んだものであって、紙切れに過ぎないが、一方で道徳とは魂、人間、人生それ自体のあり方に直結する。

 道徳とは法や政治、民主主義よりも「はるかに」上位に位置するものである。

 それはプーチンが優れた政治家であったにも関わらず、「道徳がない」という唯一の欠点のために、ウクライナ人が地上から絶滅させられつつあることを見ても、たとえどんなに馬鹿な左派マスコミと日本の政治家たちであっても一目瞭然であろう。

 道徳がない人間とは、プーチンを見てもわかる通り、サイコ(精神異常者)である。

 そして残念ながら、道徳を全否定している日本のマスコミや政治家、インフルエンサーたちも、私から見れば完全に唾棄すべきサイコパスでしかない。

 私は道徳家であると同時に、これらの手合いと戦っていかなければならず、イエスを攻撃的にしたムハンマドや日蓮上人、哲学で言えば、ニーチェのような戦闘意識、攻撃性が極めて強い。

 道徳とは他の人の心を大事にするという心それ自体でもある。

 それゆえ私は他人に対して優越感を抱いたり、人を選ぶということもしない。

 残念ながら、立花孝志を始めとする日本の政治家にはそれが顕著である。

 かつて美輪明宏は黒沢年雄の「優越感」という言葉をたしなめたが、ほとんどの著名な日本人男性には道徳を全く理解していない。

 道徳が目に見えないため直視できないからだ。

 それは他国ではキリスト教やイスラム教の宗教に委ねる。

 だが、日本ではテレビの普及によって、うつ病や統合失調症のような「人格障害」となった人たちに加えて、道徳教育を受けずに「知識が足りなくて」、道徳のない人たちであふれ返っている。

 私が「道徳家」を名乗ることは、何も知らない人たちに対して、大きな過ちを犯したり、人生で挫折したり、孤立したりして、老いさらばえる前に、何かを知ってほしいというメッセージでもある。

 もちろん、それは私の言葉に接する一人一人に対して、「道徳に気づけ」というのでは全くなく、誰にでも目に付くような、大きな駅前での、選挙運動の幟(のぼり)とあいさつみたいなもので、「社会全体が道徳的になっていかないと、社会が悪くなっていく」という、社会全体のための使命的な活動だ。

 だが(私のブログ読者や本の購入者を除く)一切の人たちは私の道徳というワードをスルーしてきた。

 それが答えである。

 ソクラテスの言う「無知の知」がないということだ。

 私が「自称道徳家」として、道徳を疎(うと)んじる高齢者に対してしてきたことは、新宿駅の地下通路で落とした切符を拾って、長い階段を上って届けてあげたり、あるいは満員電車が停車した駅で、多くの乗客から押し出されて、プラットホームで見失った持ち物を探している高齢者に、ドアが閉まる寸前にその私物を渡して上げたりと、私が一部始終を見て、「助かった」、「良かった」と思えるようなことをしてあげたことである。

 なにしろそういうことを続けてきたものだから、朝の出勤時に財布を落としても、1万円札と千円札を抜かれていただけで、それ以外のものは全く手つかずの状態で、私が落とした場所に再び私の財布が見つかったのである―。

 

 

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「道徳」で新自由主義と人権主義から日本を守る / 哲学者 高沢かずなり

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